クローン病歴26年振り返り

クローン病歴26年を振り返り経験体験を語ります

クローン病闘病記No4無職へ

潰瘍性大腸炎を発病して1年余りで、3度の入院!担当医と相談して、当時で状況だと就労困難でストレスも兼ねて、自宅要請を選択!


結果 退職願いを提出



26歳で初めての無職へ



数ヶ月は仕事から解放と病気だからの理由付けでのんびり過ごした。主にTVや映画で時間を潰していた。



しかしだ!


そんなにのんびりするにも飽きる!



潰瘍性大腸炎は寛解期時食事以外は指導を受けていない!


運動制限など



暇でしょうがない。リハビリを兼ねてパチンコやへ😁入院前からやっていた。



ちょうど高校の同級生が仕事を辞めたのを聞いたので連む カラオケ🎤パチンコで



仕事している時は、パチンコ屋に行く時間も制限されて、負け越していたが!



無職の自分は朝一で並び前日に目を付けていた台が取れる。



パチンコを知らない人は分からないと思うが、25年前のパチンコは規制が甘く。



一発台や権利物と言った、大博打機種が支流で、一回出ると数万円確定❣️みたいな機種がゴロゴロあった🤭



釘調整や台の特徴を把握すると勝率が上がる❣️



友達と行ける場所の新装開店回りを朝から閉店までパチンコをしていた。




1日で数万円が動く!10万以上の勝ちも珍しく無い。月50万以上勝ちの月もあり。月でマイナスの月は無く、本気でパチプロに成ろうと考えていた😁





しかし1日10時間以上座りとは言え、お金勝負ストレスは貯まるし、タバコの煙で環境も悪い👎




普通に仕事している方が楽だと思う時も有った!生活を掛けてやり続けるのは、遊びと違い楽では無かった。 が既に依存しているのも分かった。パチンコ以外考えられなくなっていた。



当時付き合っていた人が居たが、パチンコ優先で約束を守れない時が度々あった😥



2年程パチンコ生活を続けていた。



お腹は繰り返し出血して2回程入院もしていたが、もう諦めていた🤦‍♂️



治らない病気❗️繰り返す病気❗️

これが普通でしょ‼️


当時はSNSなど普及していない、情報が無い。

他の人の状況も知らない。これが普通だと納得するしか無い(`_´)ゞ



しかし28歳将来を考えた!パチプロはきつい!



バイトを始めた。



短時間バイト 物流倉庫での仕分け梱包


仕事内容は単純だ、輸入雑貨で、好きな物が沢山あった、仕分けの商品を見ているだけで楽しくなる職場だ。身体を慣らしフルタイムで働ける様になった。



2年ぐらい働いた。その間2回入院😭したが、問題なく、働かせてもらっていた。



そこの仕事が移転する事になり。退社




30歳将来を考えた仕事を選ぼう!


自分の得意分野は、機械いじりだ、組み立てなど、自身がある。探した。




派遣社員としてロボット組立てや配線加工を主にしている会社で働くことに!




当然病気は隠している。お腹が弱く薬を💊飲んでる程度で話した。




そこでの仕事は、初めての体験ばかりだった。


図面により配線を分ける配線加工、ハンダ付、ロボット組立て、ここでの仕事が自分の価値を上げたと思う程、器用になり集中出来た😁



学びが楽しいと感じた(^^)




ここでも入院😭するが、理解してもらい働いた


社員契約の話も出た。



が‼️




2001年9月11日

《アメリカ同時多発テロ事件》


海外の製造機輸出が止まる!



会社の仕事無くなる、8割が海外輸出のロボットアームや部品などで国内受注も無くなり、自宅待機が続いた❗️



またパチンコ生活をする




数ヶ月保証もなく自宅待機はきつい‼️



派遣会社に話しやも得ず退社



また仕事探しが始まる。



次の仕事へ





つづく

クローン病闘病記No3会社復帰だが!

3月いっぱいで全がゆにて退院(^_^)


4月半ばより職場復帰

(お見舞い返しや職場での長期離脱のお詫び廻りが面倒でしたね) 当然だけど😁



工場長へ挨拶で驚いたのは、知り合いに潰瘍性大腸炎の知人がいて、その人がとても大変な状況を知っている事、誰も知らないと思っていたのに、知っている事!



で!とても心配してくれた事、イコール仕事が難しいのでは⁈ と 確認された事‼️



当時は自分よりも、病気の心配をしてくれた事



自分はまだこの病気の恐ろしさを知ら無かった (╹◡╹)‼️



流石に、3ヶ月仕事離れていると、車🚗の整備士職はきつかった!


それ以上に、働ける事、職場の仲間達に会えた事がとても嬉しく楽しいと感じた事を覚えている。



数ヶ月何事もなかった様に、仕事復帰出来たと思っていた。食事は、会社でのお弁当をやめ、持参して気を付けていた。


腹痛や下痢もなく仕事をしていた。




が‼️



仕事中トイレへ、黒便だ❗️ 確認する もう一度



ヤバイ寒気がしたが、大丈夫だろうとそのまま仕事続けた。



しかし下痢になり、血が🩸分かる様になった!



駄目か🙅‍♂️~



班長に話し、早退した。10月



4ヶ月で再燃出血🩸自分は出血型で出だしたら中々止まらない‼️



帰宅後、胃腸病院へ🏥入院となる。



凄く考えた! 何が原因? 前日まで普通便だし! 多少お菓子は食べてる!



そんな事で、原因が分からない⁇



今回は少し落ち込んだ😥



また入院 なんだか恥ずかしい!



職場に言い辛かったのを覚えている。



ここの病院では、1度出血🩸したら、2~3ヶ月の入院と院長が決めている。ので長期離脱です。



結構出血の量も多く、今回は慎重にと、3ヶ月の入院生活となる。



入院生活は前回と同じ感じで、ルールは揺るい☺️


なので入院生活は余り苦には感じなかった。


入院中工場長が来た。



やはり整備士は難しい👨‍🔧知り合いが何回も手術して未だに体調不良が続いている との話を聞かされ職場内容の変更を言われた。



かなり落ち込んだ😥が、みんなに迷惑を掛けているのも分かっていたので、承諾して入院静養に専念した。




1月に退院!病院で初めて年末年始を迎えたが、30 31 1 2は流石に外泊許可をもらい。家で過ごした。やはり自宅が良い🏠



1月半ばで職場復帰




【お客様相談係】として会社復帰


仕事内容は、外回りで車検や点検のリピート確保や、調子伺い、担当営業の不備なのど相談、バッテリー上がりや、車🚗の引き取り納車など雑務全般である。


 

仕事内容はきつくなく、ノルマなど無く、体調に合わせて自分でその日のスケジュールを組めた。



整備士は出来ないが、会社の配慮には感謝しました。

🙏



が‼️





2月半ばに出血🩸入院😭




流石に嫌になる!


なんなのこの病気‼️



治ったのに!何故また直ぐ出血🩸するの‼️


院長に問う!



この病気の特徴で再燃と寛解を繰り返し、完治はしない‼️



【難病】の意味と病気を少し理解してきた。




4月半ばに退院 2ヶ月の入院とした。



院長と話した 今後の事 仕事など



当時はまだ潰瘍性大腸炎は珍しく、就労は困難で静養に専念した方が良いのではとの意見




考えた


整備士も出来ないし、仕事すると出血🩸多分仕事のストレスも関係あるのだと自己判断して



5月に退職願いを提出した。



工場長は、それが良いと言った


病気の事を良く知っていた意見だと思う




初めての無職になった。



無職での生活



つづく

クローン病26年振り返りブログNO2初入院

救急車で運ばれ、翌日に胃カメラと大腸カメラにより、激症型全結腸潰瘍性大腸炎と診断‼️


院長がこんな酷い腸は初めて見たと言ってました(゚∀゚)


自分は


⁇ 大腸の潰瘍ね!みたいな受け取りでしたが!


 『難病』との事‼️


 『難病』⁇⁇理解出来てません。


難病とは、 今現在では、原因不明で完治する治療が無く、一生治療をして行くとの事!


25年も前でネットなど普及していない時、情報無いので、医師の言う通りの治療で絶食からスタート ʅ(◞‿◟)ʃ


知識ゼロ出し! 不安ゼロ! 生きてるし!


初入院で個室でなんか のんびり出来そう(^^)


【この先待ち受けてる、地獄絵図(//∇//)を知らぬまま 】


大腸の潰瘍は血🩸が出たから分かる。


炎症治ったら終わり 少しの休憩程度の感覚

むしろ仕事休める😆 こんな感じで始まりました。


手術無し、ただ安静にするだけ、こんな楽な事はない、仕事疲れてたから、『lucky』と

入院1ヶ月後にはそんな感じでした。


その理由は病院でした。


個人病院で入院施設は有り、大学病院などと違い、とても揺るい😁


外出自由だし、買い物チェックも無し❣️


25年前は、TVは📺持ち込みだから、


室内アンテナで見放題😁


夕方は仕事終わりの彼女が見舞いに、退屈では有るが🥱当時は8人部屋でワイワイしながら楽チンな入院生活でした。


薬💊はサラゾピリンと胃薬と調整剤 嫌だったのはステロイド注腸これはキツかったです!


食事が全がゆにて退院


1回目の入院は、何も分からず、理解もせず、病気の難しさなどの説明も無く!食事は刺激物は駄目🙅‍♂️程度(^_^)


潰瘍性大腸炎の患者も珍しいとの病院なので、指導無し、自分は大腸炎🔥は治った気分で数日食事を気を付け、会社復帰しました。


初入院の記憶でした。


次回仕事復帰へ


つづく